The Revenge of the Hackers

真のプログラマたちの回帰

Eric S. Raymond
Translation by Akira Kurahone



一九九六年、私は「真のプログラマたちの国−概略史」の最初のバージョンをウェブ上で公開した。一九九〇年に「ハッカー辞典」初版の編集に携わってからというもの、ひとつの文化として真のプログラマたちのカルチャーにずっと魅せられてきた。一九九三年後半には、多くの人から私は、このカルチャーの歴史に詳しい人物、このカルチャーの文化人類学者と見なされるようになった。そして私自身もそう思っていたし、その役回りに満足していた。
 しかし私は、真のプログラマのカルチャーについて自分が行なったちょっとした人類学的研究が、変革への大きな触媒になるとは夢にも思わなかった。そんな意外ななりゆきは、このカルチャーに大きな影響を及ぼすことになった。コンピュータ技術の進展やビジネス界の様相にも大きな影響を及ぼすことになった。そして我われは今だにその影響下にいる。
 この論文では、(ネットスケープ社の自社製ブラウザのソースコードを無償公開するという発表によって)オープンソース革命が「世界にとどろきわたった」一九九八年一月までに起こった数々のできごとを、私なりの視点で要約する。いままで歩んできた道のりを振り返るとともに、将来に向けて多少の予測もしてみようと思う。


「ブルックスの法則」を超えて
 私は、一九九三年の後半、(Linuxディストリビューションのパイオニアのひとつである)イグドラシルのCD−ROMを通じて初めてLinuxと出会った。私が、真のプログラマたちのカルチャーと関わるようになってからすでに十五年たった頃の話である。私とこのカルチャーの関わりは、一九七〇年代後半、草創期のARPAnetとの出会いが最初である。私は、ITSマシンにもちょっとだけ手を出したこともある(ITSは、Incompatible Timesharing Systemのことで、MITがDEC社製PDP−10用に独自に開発し、使用していたオペレーティングシステムである)。私は、一九八四年にFSF(Free Software Foundation)が設立される前から、フリーソフトウェアを書いてUSENETにポストしたりしていた。私は、FSFに最初にフリーソフトウェアを寄稿した人間のひとりでもあった。一九九三年の後半、Linuxと初めて出会った頃、私は「ハッカーズ大辞典」第二版を刊行したばかりであった。そして、真のプログラマたちのカルチャーについて熟知していると思っていた。その限界についても理解しているつもりであった。
 そのような私にとってLinuxとの出会いは衝撃的なものであった。「いくら才能があるとはいっても、我われはしょせんアマチュアのプログラマであり、安定に動作するマルチタスクOSを作れるだけのリソースやスキルを集めることなんか、できるはずがない」。このカルチャーについて長年研究してきていた私でも、そういう根拠のない先入観をまだ抱いていたからである。結局のところ、FSFが十年前から開発しようとしていた(UNIX互換OSの)HURDにしても、今だに完成していなかった。
 しかしHURDの開発者たちがなしえなかったことを、リーナス・トーバルズと彼のコミュニティはなしとげていた。しかも彼らは、UNIXインターフェイスの安定性と機能性という、最低限の要求を満たすだけに留まらなかった。彼らは、優れたセンスと豊かな才能でそういう基準を軽々とクリアし、プログラム、ドキュメントなどのリソースを山のように作り出していたのである。インターネット用ツールをはじめ、DTPソフト、グラフィックスのサポート、エディタ、ゲームにいたるまで、彼らはあらゆるものを作り出していた。
 すばらしい出来ばえのソースコードが、きちんと動くシステムとして目の前に現れたのは、ただ頭の中でそういうものがあるのだろうと理解するより、私にとってはるかに強烈な印象であった。ばらばらの自動車部品の山を何年もつつきまわった私の目の前に、突然同じ部品で作られた真っ赤なフェラーリが出現して、ドアが開き、キーの入っているエンジンの静かなうなりがそのパワーを物語っている……。私は、そんな車をいきなり見せられたような気がした。
 Linuxと出会ったとき、私は、それまで自分が二十年間見てきた真のプログラマたちの伝統が、とつぜん新しい生命を与えられてよみがえったような気がした。しかも、そのLinuxのCDには、私が個人的に行なったフリーソフトウェアのプロジェクトの成果物がいくつか加えられていたので、ある意味で、私自身がそのコミュニティの一員であった。そして私はLinuxについてもっと知りたいと思った。Linuxを目にした私の喜びも大きかったが、それだけ困惑も大きかったからである。Linuxは、あまりに出来が良すぎたのである!
 ソフトウェア工学における作業量と作業者数の関係は、「ブルックスの法則」によって言い表わせられる(ブルックスとは、IBMのOS/3600の開発過程などをまとめたソフトウェア工学の古典「人月の神話」で有名なフレデリック・P・ブルックスJr.のこと)。プログラマの人数がN倍に増えると、こなせる作業量もN倍になるが、複雑さとバグの発生しやすさはNの2乗になる。この場合のNの2乗とは、開発者相互間のコミュニケーション経路(そして潜在的なプログラム間のインターフェイス)の数である。
 つまり大勢の人間が開発に関われば関わるほど、その開発の成果物は不安定になって収集がつかなくなるというのが、「ブルックスの法則」である。ところがLinuxコミュニティは「ブルックスの法則」を打ちまかし、驚くほど質の高いOSを誕生させていた。私はその理由を探ってみたいと思った。
 Linuxコミュニティに参加して綿密に観察すること三年、ようやくひとつの理論をうち立てた私は、さらに一年かけてそれを検証した。そして見てきたことを、「伽藍とバザール」(http://www.tuxedo.or/~writing/
cathedral-bazaar山形浩生氏による邦訳はhttp://tlug.linux.or.jp/docs/cathedral-bazaaer/)という論文にまとめて発表した。


神話作り
 Linuxコミュニティは、私がそれまで見たこともないくらい効率的なソフトウェア開発技法を編み出していた。そこでは、なぜ機能するかという理論や説明はなしに、模倣と実例によって伝えられる習慣の集合体が、効率の良い手法として実現されていた。
 いまにして思えば、理論や説明がないことが二つの意味で彼らの足かせとなっていた。ひとつは、理論や説明がないために、彼らは自分たちの手法をどうすれば改良できるかを体系的に考えられないでいた。もうひとつは、その手法をほかの誰かに説明したり、売り込んだりできないでいた。
 このように二つの足かせがあったものの、当時(一九九三年の後半)の私は前者の影響しか考えていなかった。したがって、私が論文(「伽藍とバザール」)の執筆を思いたった動機は、自分たちのカルチャー内で使える適切な言葉を彼らに提供し、彼らが自らのことを自ら説明できるようにすることにあった。私は、生き生きとしたメタファーを使い、見たままを物語風に記しながら、彼らの習慣の背後にある論理を導きだそうとした。
 私は、「伽藍とバザール」において特に驚くべき発見をしたわけではない。そこに記されている手法にしても、私が考案したものではない。この論文に目新しい特徴があるとすれば、それはそこで使われたメタファーや物語風の構成であろう。この構成のおかげでシンプルでも説得力のあるストーリーができあがった。それが、新しい角度から事実を見るように読者をしむけたのである。私は、真のプログラマたちのカルチャーを創生神話的にエンジニアリングしようとしたのである。
 私は、一九九七年五月にバイエルンで開かれたLinuxコングレス(Linux会議)で、「伽藍とバザール」の全文を初めて発表した。聴衆は私の言葉に聞きいり、万雷の拍手を贈ってくれた。聴衆の中に、英語を母国語とする人たちがほとんどいないにもかかわらず、これだけの歓迎を受けることは、私の試みが支持された証拠である、と私はそのとき思った。そして、木曜日の夕食会でティム・オライリーと隣あわせに座ったことが、その後の重要な動きを決定づけた。
 ティム・オライリーに敬服していた私は、以前からティム本人に会いたいと思っていた。夕食会での会話は幅広い話題におよんだ(その多くは、二人の共通の趣味である古典SFに関するものであった)。そして私は、その年の後半に彼が開催するPerlコンファレンスに招待され、「伽藍とバザール」を発表することになった。
 ここでも私の論文は大歓迎を受け、(立ち上がって拍手喝采する)スタンディングオベイションまで起こった。バイエルンでの発表以来、この論文についてのニュースが野火のようにインターネットで広がっていることを私自身も電子メールで知っていたし、聴衆の多くもその噂をメールで読んでいたから、そこでの発表が特に新鮮だったわけではない。そこでの聴衆は、論文に盛り込まれた新しい言葉と意識に直接触れたことに感激してくれていた。あのスタンディングオベイションは、私に対してというより、自分たちのカルチャーそのものへの祝福だったのである。
 そのときは気づかなかったが、私の試みは、もっと大きなうねりをもたらしつつあった。私の発表が画期的だと思った人々のなかに、ネットスケープ・コミュニケーションズ社の人がいたからである。そしてそのとき、ネットスケープ社は苦境に直面していた。
 インターネット技術の先駆者で、その株がウォール街でも急成長していたネットスケープ社は、マイクロソフト社による切り崩しの標的になっていた。巨大企業マイクロソフトは、PCデスクトップ市場を独占して莫大な富を得ていたが、ネットスケープのブラウザが採用しているオープンなウェブ標準が、そんな独占状態をおびやかすことを恐れていた。そして、その懸念は確かに的を射ていた。マイクロソフトは、巨額の資金を注ぎこんで、やがて米国司法省による反トラスト訴訟に発展することになるほどの後ろ暗い策略をめぐらせ、ネットスケープ社のブラウザを市場から締め出そうとしていた。
 ネットスケープ社にしてみれば、ブラウザ関連の収入(全体のごくわずかしかなかった)を確保することより、サーバビジネスを確実に展開できる余地を残しておくほうが大切であった。ブラウザ市場がエクスプローラによって独占されてしまうが最後、マイクロソフト社がウェブプロトコルを非オープン標準化し、ウェブの世界を同社のサーバだけがアクセスできるものにしようとすることが考えられた。
 ネットスケープ社の内部でも、マイクロソフトの脅威にどう対抗したらいいかという議論が熱心に行なわれていた。選択肢のひとつとして早い段階で提案されたのが、ネットスケープブラウザのソースコードを無償公開するアイデアであった。そして、ネットスケープ社は、そのアイデアを実行に移すのに、そうすることによってエクスプローラの支配を防げることを示す確かな根拠を必要としていた。
 私自身は知らなかったのだが、その根拠として重要な役割を果たしたのが「伽藍とバザール」であった。私が次の論文を書いていた一九九七年の冬、ネットスケープ社は業界の慣例に逆らい、過去に例のないチャンスを私たちに提供する準備を整えつつあった。


マウンテンビューへの道
 一九九八年一月二十二日、ネットスケープ社はコミュニケータのクライアント版のソースをインターネット上で無償公開すると発表した。同社のCEOであるジム・バークスデール(Jim Barksdale)が全国メディアの記者に対し、このたびの決定のきっかけは、私の論文に「触発された」たことであると語っているのを私が知ったのは、その翌日、ブラウザのソースコード無償公開のニュースが私のところに届いて間もなくのことである。
 ネットスケープ社の発表は、コンピュータ業界のマスコミの記者たちによって、のちに「世界にあまねく響きわたった一発」と呼ばれるようになる。そして私は、自分の意思とは関係なく、バークスデールの引用によってトーマス・ペインの役割を与えられた(トーマス・ペインは、アメリカ独立宣言の前夜発表され、独立への奮起を植民地の人々に促した「コモン・センス」の著者)。真のプログラマたちのカルチャーの歴史上はじめて、ウォール街好みのフォーチュン500のひとつに数えられている大企業が、我われの道が正しいと信じて未来を託したのである。もっと具体的に言えば、「我われの道」に対する私の分析が正しいと信じてもらえたのである。
 私は、ネットスケープ社が私の論文に触発されてブラウザのソースコードの公開を決定したと聞いたとき、酔いもさめるほど本当にびっくりした。「伽藍とバザール」が我われのカルチャーのイメージを変えたことは、驚きではなかった。つまるところ私は、それをめざしていたからである。しかし、「伽藍とバザール」の試みが、コミュニティの外側でも成功したと知ったとき、私は(控えめな言い方だが)本当にびっくりしたのである。そして、このニュースを聞いてからしばらく、私は考え込んでしまった。Linuxとコミュニティの置かれている状況について、ネットスケープ社の置かれている状況について。そして私個人が、次のステップに進むべきか、だとすればそれは何かということについて考えてしまった。
 結論を言えば、ネットスケープの賭けが成功するように後押しすることが重要であった。それが、コミュニティにとっても、そして私個人にとっても重要課題であることは間違いなかった。ネットスケープの試みが失敗に終われば、おそらく我われが非難の矢面に立たされるだろうし、そうして傷ついた評判が十年間は回復不能に陥ることは間違いなかった。そんな目にはぜったいあいたくなかった。
 私は真のプログラマたちのカルチャーに関わって二十年、様々なことを見聞きしてきた。その二十年間に、すばらしいアイデアが生まれ、有望な企業が誕生し、優れたテクノロジが登場しては、マーケティング巧者の手で葬りさられるのをこの目で見てきた。真のプログラマたちの夢と汗と努力をよそに、かつてはIBMが、いまはマイクロソフトのような会社が成功と絶賛を横取りしていくのを目の当たりにしてきた。私が二十年間暮らしてきたゲットーは、面白い友人たちがたくさんいて居心地がすこぶる良いコミュニティではあっても、しょせんは閉鎖的なところである。世間から見れば、「変人以外お断り」という見えない偏見のバリアでおおわれている。
 しかしネットスケープ社の発表は、ほんの一瞬でもそのバリアを破り、それによって、「真のプログラマたち」の能力に高をくくっていたビジネス界に衝撃を与えたのである。しかし、すでに定着してしまっている偏見はなかなか消せないものである。ネットスケープ社が成功するにせよ失敗するにせよ、この試みが一回限りの特例であると思われたら、追従するに値しない試みと思われたら、我われはもといたゲットーに戻らざるをえない。そうなったら、いままで以上に高い壁が築かれてしまう。
 それを避けるには、ネットスケープ社にはぜひとも成功してもらわなくてはならなかった。私はバザール方式の開発経験で学んだことをもう一度思い出してから、ネットスケープ社に電話を入れた。新しいライセンスの作成と戦略の詳細作りを手伝いたいと申し入れるためである。二月はじめ、私はネットスケープの誘いに応じてマウンテンビューにある本社を訪れ、いろいろなグループと七時間にわたる話し合いを持った。そして、彼らがMozilla・パブリック・ライセンスとMozillaグループを作りあげるのを手助けした。
 ネットスケープ訪問中に、私はシリコンバレーや米国内のLinuxコミュニティの重要人物たちと会うことができた(詳細はオープンソースのウェブサイト(http://www.opensources.org/history.html)にあるヒストリーのページを見てほしい)。ネットスケープ社に協力することが当面の課題であったが、会って話をした人はみんな、ネットスケープのリリースに追従する長期的な戦略の必要性を感じていた。それは、そのような戦略を実際に作り出すときが到来していることを意味していた。


「オープンソース」という言葉の誕生
 戦略の概要をとらえるのは難しくなかった。私が「伽藍とバザール」で先鞭をつけた現実的な主張を取り入れ、それをさらに発展させ、パブリックなところで推進すればよかったからである。ネットスケープ社自身も、自社戦略がばかげたものでないことを投資家に納得させる必要があったから、我われが自分たちの主張を普及させようと思ったら、同社が我われの試みに手をかしてくれることも期待できた。また、我われは早い段階から、ティム・オライリー(と彼の会社であるO'Reilly & Associates)に頼んで、彼らの協力を約束してもらっていた。
 しかし、我われが大きく前進できたのは、自分たちにはマーケティングキャンペーンが必要であることに気付いたときである。自分たちの成功にはマーケティングテクニック(キャッチフレーズ、イメージ作り、ブランドの作り直し)が不可欠だという事実を自ら認めたときに、我われの考えにもようやく進展の兆しが見えてきたのである。
 こうして二月三日、マウンテンビューにあるVAリサーチ社のオフィスでのミーティングで、「オープンソース」という言葉が誕生した(VAリサーチ社は、Linux用PCの販売で知られている)。このミーティングに参加した人たちが作ったのがオープンソースキャンペーンであり、やがてはオープンソース・イニシアティブ(Open Source Initiative)に発展する組織である。
 いま思えば、「フリーソフトウェア」という言葉は、長年我われの運動に打撃を与えていた。「言論の自由/ただのビール(free speach/free beer)」という有名なたとえがあるように、フリーという言葉の解釈がまぎらわしいことも原因だが、問題はもっと根深いところにあった。「フリーソフトウェア」という言葉には、知的所有権への反発や共産主義といった、MISマネージャ(まともな会社の情報システム部長)にはとうてい受け入れられないイメージがつきまとっていたのである。
 FSFが知的所有権に反旗を翻している、共産主義的な立場をとっているなどという発想は、当時も今もむろん的はずれである。それは我われもわかっている。だがネットスケープ社がオープンソース化した今、FSFの実際の立場がどうであるかはもはや問題ではなくなっていた。問題になっていたのは、「フリーソフトウェア」というアイデアを広めようとするFSFの努力が我われに逆効果をもたらしていたことである。FSFの「フリーソフトウェア」の主張が、我われに対するネガティブなイメージをマスコミや企業関係者に植え付けてしまったことである。
 オープンソース化の成功をネットスケープ社だけの例で終わらせないためには、FSFから連想されるマイナスイメージを払拭する必要があった。ちゃんとした会社の経営者や投資家たちが、我われ真のプログラマやその文化的スタイル、そしてフリーソフトウェアに対して抱いているマイナスイメージを、信頼性の高さやコストの低さ、高機能といった、プラスのイメージで置き換える必要があった。
 我われのすべきことをマーケティングの用語で表わせば、製品の再ブランド化を図る、ということになる。我われは、我われ自身のコミュニティや、我われ自身の開発しているものについて、そんなにいいのなら買ってみたいなと企業に思わせるような評判を確立する必要があった。
 リーナス・トーバルズは、最初のミーティングの翌日にこの考えを支持してくれた。そこで我われは数日後には行動を開始した。opensource.orgのドメイン名は(デビアンLinuxグループの)ブルース・ペレンスがすでに登録してあったので、我われは一週間もたたないうちにオープンソース初のウェブサイトをとりあえず立ち上げることができた。さらにペレンスは、“デビアンフリーソフトウェアガイドライン”を「オープンソースの定義(OSD)」として作り直した。また、彼は、OSDの要綱に合致した製品に「オープンソース」の名称を使えるよう、認証マークとして「オープンソース」を登録した。
 この戦略を推し進めるための具体的な作戦は、すでにこの段階から、私の頭のなかに描かれていた。それは次のようなものである。



私にとっての意味
 こうした戦略を作るのはどちらかというと簡単であった。難しかったのは(私にとってという意味であるが)、自分の果たすべき役割を引き受けることであった。
 抽象的な話にマスコミがぜったい乗ってこないことは、最初からわかっていた。目の前にこれはと思う人物がいないと、マスコミは何も書いてくれない。すべてにストーリーやドラマ、葛藤、コメントがないとだめなのである。さもないとレポーターたちは居眠りをしてしまう−現場の記者が眠りしないときは、編集者がしてしまう。
 ネットスケープ社のオープンソース化という大きなチャンスを活かしきるためにも、我われが自分たちのコミュニティを代表する顔を必要としていることはわかっていた。我われは、いわば先導者でありながら、メディア対策・宣伝担当者でもあり、外交官や唱道者にもなれる人物を必要としていた。屋根の上から大声でわめき、派手に歌ったり踊ったりしてレポーターたちの注目を集め、大企業のCEOと密談をかわして、「オープンソースの革命が始まるぞ!」というメッセージをマスコミにひたすら吹きこめる人物を必要としていた。
 私はプログラマにしてはめずらしく外向的な性質で、本格的なマスコミ対策をやった経験もあった。周囲を見回しても、伝道者としてほかにふさわしい人間がいるわけでもない。しかし私は、この役回りを引き受けたくなかった。何か月も、へたをすると何年も生活がそれ一色になってしまうからである。プライバシーは踏み荒らされ、マスコミの風刺漫画では変態みたいに描かれるからである。多くの仲間たちから、裏切り者、寝返ったブタと看做されるおそれもあったからである。そして、なによりも、プログラミングに没頭できる時間がなくなってしまうからである。
「仲間たちがむざむざ敗北するのを見るのはもうたくさんだ、勝つためには何でもやるべきではないか?」 そう自問したとき、私の答えはイエスであった。私はそう決断し、これからは腹をくくり、メディア向けの顔という面倒な役回り、だが必要な立場に我が身を置くことにした。
「ハッカーズ大辞典」の編集をしたときの経験で、マスコミ操作の基本はすでに心得ていた。しかし今度はこの仕事をもっと真剣に受け止め、メディア操作の理論を編みあげて、それを実際に応用することにした。その理論をここで詳細に説明するわけにいかないが、「魅力的な不協和音」をかなでることで私への好奇心をあおりたて、その好奇心を通じて本来のアイデアを広める作戦が柱となっている。
「オープンソース」という名称と、私自身が唱道者となって巧みにプロモーションを展開したことは、思ったとおり良い結果と悪い結果を引きおこした。ネットスケープ社の発表に続く十か月のうちに、Linuxはもちろんオープンソース界全体のことが、メディアに登場する回数は確実に増えていった。この期間中の報道のうち、およそ三分の一は私の発言を直接引用していたし、残り三分の二も予備的情報源として私を使っていた。私が頻繁に露出されるようになるに従い、コミュニティの一部の人たちが私を悪魔のエゴイスト呼ばわりするようにもなったが、そのような悪い結果に対しても、良い結果に対しても、私はユーモアのセンスを失わないよう努力した(それはときとして難しいことであった)。
 私としては、唱道者としての役目を別の個人か組織のいずれかに引き継ぐつもりでいた。というのも、ひとりの人間のカリスマ的な動きより、組織的な運動のほうが人びとをもっと効果的に惹きつけられる時がかならずやってくるからである(それも早ければ早いほどいいというのが、私の持論である)。この論文を書いている時点で、私は個人的になしとげてきたものをすべてオープンソース・イニシアティブが引き継げるようにしようとしている。この組織は、オープンソースの商標を管理することを目的とする非営利法人である。私は、いまオープンソース・イニシアティブの会長を努めているが、いつまでもその地位に留まるつもりはない。


オープンソースキャンペーン実現へのステップ
 オープンソースキャンペーンはマウンテンビューの話し合いで始まり、インターネットを通じて非公式な同盟ネットワークが急速にできあがった(ネットスケープやオライリー社の重要人物を含む)。なお、以下の文章で私が「我われ」と書くときは、このネットワークの人びとを指している。
 マウンテンビューではじめて会合を持った二月三日から、ネットスケープ社が実際にリリースした三月三十一日までの間、我われは、真のプログラマたちのコミュニティに「オープンソース」という名称を認めてもらうことに全力を尽くした。社会の主流を納得させるには、この名称に込められた主張を展開するのが一番なのだということをコミュニティにわかってもらうために我われは全力を尽くしたのである。いざ動きだしてみると、変化を起こすことは思ったより簡単であった。机上の空論に走りがちなFSFとは異なる、地に足のついたメッセージを待望していた人たちは多かったのである。
 三月七日に開かれたフリーソフトウェア・サミットで、二十名ほどのコミュニティリーダーたちは、「オープンソース」という名称の採用を投票のうえ決定した。草の根レベルでの開発者の間ではすでに当然とされていたことが、ここで正式に認められたのである。マウンテンビューの会合から六週間たつ頃には、コミュニティの大多数が我われと同じ見方で物事をとらえていた。
 サミットに続いて、ネットスケープ社のリリースが終わった四月になると、我われの関心は、オープンソース方式を早くから採用していた人たちをできるだけたくさん取り込むことに移った。ネットスケープ社を特例にするのではなく、またひょっとして同社のオープンソース化が失敗に終わったときのために、保険をかけておく必要があったからである。
 この時期は、いちばん気をもんだ時期でもあった。表面的には、すべてが順調に進んでいるように見えた。Linuxはますます技術的に優れたものになりつつあった。オープンソース現象は業界マスコミでも盛んに取りあげられていた。一般マスコミでも好意的に受けとられつつあった。しかし、私には、そんな成功がしょせんもろいものであることがわかっていた。Mozillaプロジェクトに寄稿されてくるコードの量は、最初のうちこそものすごいものであったが、Motifの使用が必要であったことから、最初に比べれば減ってきていた。独立系の大手ソフトウェアベンダーは、まだどこもLinuxの移植に名乗りを上げていなかった。ネットスケープ社はひとり孤立しているようであった。しかもその市場シェアは、依然としてエクスプローラにじりじりと食われ続けていた。ここで大きな失敗をしでかしたら、マスコミも世論も手のひらを返したように態度を変えることが考えられた。
 ネットスケープ以後の大きな進展は、五月七日に訪れた。コーレル・コンピュータ社が、Linuxベースのネットワークコンピュータ“Netwinder”を発売すると発表したのである。しかし、せっかくの勢いを保ち続けていくためには、それだけでは力不足であった。この不安定な段階を終わらせるためには、チャンスを狙う二番手クラスではなく、業界を代表する企業の参入が不可欠だった。そして、それは七月半ば、オラクル社とインフォミックス社の発表によって実現される。
 データベースを主力製品とするオラクル社とインフォミックス社は、私の予測より三か月早くLinux陣営に加わったが、それでも早すぎるわけではなかった。我われは、主要独立系ソフトウェア会社(ISV)のサポートがまったくない状態で、この追い風はそう長くは続かないのではないかと思っていた。そういうところがまったく出てこないのではないかという不安もあった。しかし、ひとたびオラクル社とインフォミックス社がLinuxのサポートを発表すると、他のISVも当然のように追随し、結局Mozillaプロジェクトの失敗さえも取りかえしがきくことになった。
 七月半ばから十一月の始めまでは、足場固めの段階であった。ここに来てようやく、最初に標的としていた一流メディアがオープンソースについて頻繁に報道するようになった。『エコノミスト』には何度か記事が出て、『フォーブズ』ではカバーストーリーにもなった。ハードウェア、ソフトウェアのベンダーがオープンソースコミュニティを調査しては、この新ビジネスモデルの恩恵に浴せる戦略作りをするようになった。そして、ソースコードをクローズにしていることでは世界一であるマイクロソフトの社内では、ひそかに不安が高まりつつあった。
 オープンソースに対してマイクロソフトがどれほど脅威を感じていたかは、いまとなっては知らぬ者のない「ハロウィーン文書」に明らかである(http://www.opensources.org/halloween.html)。
 ハロウィーン文書は、Linuxの成功でいちばん失うものが大きい企業が、オープンソース方式での開発の強みを明白に示した点において、まさに驚くべきものであった。そして、この文書は、マイクロソフト社がオープンソースを阻止するために手練手管を尽くすのではないかという、多くの人が心の奥底で抱いていた疑惑を裏付けるものでもあった。
 ハロウィーン文書は、十一月に入って大いにマスコミを賑わした。オープンソースに対する新たな関心をかきたて、我われが何か月も前から展開していた主張が、はからずも後押しされる結果になった。ハロウィーン文書に対する反響はあまりにも大きく、(大手証券会社の)メリル・リンチ社の大口投資家のグループから、ソフトウェア業界の現状とオープンソースの展望について話をしてほしいという依頼が直接私のところに来たほどであった。
 ついにウォール街が、我われに歩みよってきたのである。


技術面、マーケティング面での動向
 オープンソースキャンペーンが、メディアで「空中戦」を展開している間も、技術面、マーケティング面での動向は変わりつつあった。それはマスコミや世論の認識とも関わっているので、ここで簡単にまとめておく。
 ネットスケープ社のリリースから十か月間に、Linuxのカーネルそのものも急速に成長していた。堅牢なSMPサポートを開発し、64ビットクリーンの作業が完了したことは、将来に向けた確かな布石になっていた。
 映画『タイタニック』の場面作りに複数のLinuxマシンが大いに活用されたことは、高価なグラフィックスエンジンを作っている企業に脅威を与えていた。また、安上がりなスーパーコンピュータを作るBeowulfプロジェクトは、中国軍もかくやと思わせるLinuxの人海戦術が、超最先端の科学計算にもちゃんと応用できることを証明していた。
 オープンソースにおいて、Linuxと肩を並べるライバルが登場し、脚光を浴びるといった劇的な動きはなかった。商用版UNIXは市場シェアを失い続け、一九九八年の半ばになると、フォーチュン社ではNTとLinuxだけがシェアを伸ばしている状態であった。そして、秋に入ると、Linuxのシェアがぐんぐん伸び始めていた。
 ウェブサーバ市場では相変わらずApacheがリードを伸ばしていた。十一月にはネットスケープ社のブラウザが市場シェアの減少を食いとめ、エクスプローラへの反撃を開始した。


将来に向けて
 このように最近の動きをまとめたのは、記録という意味もあるがもちろんそれだけではない。近い将来の流れを理解し、遠い将来を予測するための基盤を固めるのが重要な目的である(この文章は一九九八年十二月半ばに書かれている)。
 それではまず、来年(一九九九年)に確実に起こることを予測しておこう。



 以上の予測をざっと眺めると、Linuxひとり勝ちのシナリオのように聞こえるかもしれない。しかし、世の中はそう甘くない。マイクロソフトはデスクトップ市場で大儲けしており、強大な影響力を誇っている。
ウィンドウズ2000が座礁したとしても、彼らが脱落したとみなすことはできない。
 二年後より先のことになると、私の水晶玉も曇ってよく見えなくなる。司法省はマイクロソフトを分割するのだろうか? Be OS、OS/2、Mac OS/Xなどソース非公開のニッチOS、あるいはまったく新しいアーキテクチャのOSが、三十年を経たUNIXの基本アーキテクチャを持つLinuxと競い合うようになるのだろうか? 二千年問題で世界経済はどん底に落ちこみ、みんなの予定が大幅に狂ってしまうのだろうか?
 これらはどれも答えを出すことができない問いかけであるが、その中に考えるに値する問いがひとつある。Linuxコミュニティは、使いやすいGUIインターフェイスを作り出すことができるのだろうか?
 二年後以降でいちばん考えられるシナリオは、Linuxがサーバやデータセンター、ISP、インターネットを効率的に運用するOSなっているということである。しかし、マイクロソフトも依然としてデスクトップでの地位を守りぬいているだろう。その先となると、それは、GNOMEやKDE、その他LinuxベースのGUI(およびそれを使うために作られる、あるいは作り直されるアプリケーション)が、マイクロソフトの足下を脅かすほど優秀なものになるかどうかにかかっている。
 もしこれが技術面の課題であれば、結果は疑うまでもないことである。しかし、これは、技術面の話ではなく、人間工学デザインやインターフェイス心理学の話なのである。そして、プログラマたちは昔からそういうことが得意ではない。つまり彼らは、ほかのプログラマたちのためにインターフェイスを設計するのは得意でも、(人口の95%にあたる)プログラマ以外の普通の人々の思考プロセスをモデル化して、一般の人が買いたくなるようなインターフェイスを作るのは苦手なのである。
 今年はアプリケーションが課題であったので、我われは自分たちで書かないアプリケーションをISVに開発させるようにこれからはなるであろう。そして、今後二年間のテーマは、ユーザインターフェイスである。マッキントッシュに肩を並べ、超えることのできるユーザインターフェイスでありながら、UNIX本来の利点も盛り込まれたものを作れるかどうかに今後の二年はかかっている。
「世界制覇」という言葉を半分冗談で口にするが、それを実現させるには、世界に奉仕する以外にない。それはつまり、普通のユーザに奉仕することであり、自分たちのやっていることをまったく新しい角度で考えることである。システム的に言えば、ユーザから見える標準的な環境のややこしい部分を思いきって切りつめ、シンプルにするということである。
 コンピュータは人間が使う道具である。ということは、ハードウェアやソフトウェアを設計する作業は、突きつめれば人間のため、すべての人類のために設計することにほかならない。
 この道は長く、平坦ではない。だがそれをやってのけるのが我われの責務である。

オープンソースがあなたとともにあらんことを!