ひろく用いられているhttpサーバであるApacheを開発しているApache Groupの
共同設立者であると同時にコアメンバーの1人。Apacheの開発プロジェクトは拡
大を続け、現在では多彩な機能を提供するサーバとなった。
1998年の後半に、IBM社が同社のAS/400機種でApacheをサポートすると発表し
た。このIBMの動きに対して、彼は次のように述べている。「ビジネスチャンス
があると考えていたのが自分一人じゃなかったので幸せでした。……集まってき
た人々は、オープンソースがコンピュータで何かを行なう最も優れた方法である
ことを実際に目の当たりにし、健全で利潤の多いものである点を理解したのです。」
ARPAnetの初期の頃からハーバード大学でデータネットワークの設計/運営とデ
ータ利用に携わり、HSDN、LMAnet、NEARNETの設計に関わり、多くの技術委員会
の宇婦負にあたってきた。
Harvard Office of the Provostの主任技術コンサルタントを勤め、ハーバー
ドのデータネットワークや新しい技術に関連した問題点に対して、技術的なアド
バイスや指導を与えている。技術会議で講演することも多く、毎週、『Network
World』に記事を書き、Interopのインストラクタとしても活躍している。副業と
して個人でコンサルティングも行なっている。
Netscape Communications Corporationのクライアント製品部門の副社長。1997
年6月にNetscape社がDigitalStyle Corporationを買収した際、同DigitalStyle
社の共同設立者であり、代表取締役兼CEOでもあった。
DigitalStyle社を設立する前は、Pages Software, Inc.の副社長であり、エン
ジニアでもあった。デスクトップパブリッシング用ツールであるPagesと、最初
のWYSIWYG形式のWebのオーサリングツールであるWebPagesの開発を管理していた。
MIT、カリフォルニア大学バークレイ校、カーネギーメロン大学の電子工学お
よび計算機科学の学士号、修士号、博士号を持つ。
カリフォルニア大学バークレイ校に在学中、4.2BSDのファスト・ファイルシス
テムをインプリメントし、4.3BSDと4.4BSDの開発とリリースを監督したCSRG
(Berkeley Computer Systems Research Group)の計算機科学者。
カリフォルニア大学バークレイ校で計算機科学の修士号とMBAを取得。Usenix
Associationの会長を勤めた経験もあり、現在はACMとIEEEの会員となっている。
余暇には水泳やスキューバダイビングを楽しみ、熱心にワインを収集している。
コレクションのワインは、自宅のワインセラー(http://www.mckusick.com/~mckusick/index.html)に保存されている。
O'Reilly & Associates, Inc.の設立者兼CEOである。Perl、Linux、Apache、
それにインターネットのインフラといった、オープンソース技術の決定版と高い
評価を得ている書籍を発行している。主要なオープンソース・コミュニティの
リーダーを一堂に集めた最初の「オープンソース・サミット」を1997年に主催し
著作物や講演、カンファレンスを通して、オープンソースを活発に促進して
いる。ISOC理事。
IBMの研究所で並列プロセッサに関連したプロジェクトに参加していたが、当
時の新しいPC用に(AMD 29116をベースにした)ビットマップグラフィック・ア
クセラレータを開発して終わった。その後、MITおよびブラウン大学でX6とX9に
携わった後、カーネギーメロン大学で最初の商用版X11を生み出す一部を担った。
1994年4月にNetscape社のJim ClarkおよびMarc Andreessonに加わって、最初の
エンジニアリングマネージャとして、Mozillaのリリース1.0と2.0までチームを
統率。現在はNetscapeフェローであり、管理者、問題仲裁人、不思議な政治的リ
ーダーとして、mozilla.orgで仕事をしている。
1997年まで、すべてオープンソース・ソフトウェアを基にしたLinux配布キッ
トを作成するボランティア活動のDebianプロジェクトの指揮を務めていた。
Debianプロジェクトに関わっていた際に、Debian配布キットに関する権利関係
の規定として『Debian Social Contract』の制作に加わった。これが今日の「オ
ープンソースの定義」の直接的な祖先である。
Debianの世話係りという職から退いた後、「公共利益におけるソフトウェア
(Software in the Public Interest)」を唱えて実際にソフトウェアを作成し、
Eric RaymondとともにOpen Source Initiativeを設立して、オープンソースの普
及に努力を続けていた。
1970年代後半のARPAnetの日々以来、驚きと魅力に駆られながらインターネッ
トとハッカー文化を観察し、また実際に参加してきた長年のハッカー。
手がけたオープンソース・プロジェクトのいくつかは、主要なLinux配布キッ
トに収録されている。おそらく最もよく知られているのがfetchmailだが、GNU
Emacsとncursesにも広く貢献しており、現在、非常に重要なのにあまり感謝され
ることのないtermcapの管理を行なっている。
1997年には『The Cathedral and the Bazaar』という題の随筆をWebに掲載し、
先駆的なNetscape社のブラウザのソースコードを公開したキー・カタリストと謳
われている。最近では、Linuxに関するMicrosoft内部の一連のメモを暴露し、オ
ープンソース・ソフトウェアに気付いたMicrosoftに脅威を及ぼした。このいわ
ゆるハロウィーン文書(最初に公表された10月31日にちなむ)は、ユーモアの源
であると同時に、大きなソフトウェア集団がオープンソース化現象に示した、最
初の肯定的反応でもあった。
本書を手にしている読者の誰もが、いろいろな点でRichard Stallman(RMS)
の恩恵を受けている。フリーソフトウェアの開発を保護/育成するために、GNUプ
ロジェクトを創始。プロジェクトの明文化された目標は、ソフトウェアに対して、
誰もが二度とお金を払わなくて済むよう、オペレーティングシステム全体を作成
し、フリーでオープンな使用許諾書の基で利用可能なユーティリティを一式作成
することだった。彼はフリーソフトウェアの伝道主義(エバンジェリズム)とし
て広く知られている。
「Richard Stallmanがいなかったら、まず先に、彼を発明する必要があっただ
ろう」と多くの人々が述べている。この賛辞は、オープンソースという動向は、
今日でも伝導し普及に努めているフリーソフトウェアという動きがなければ起こ
り得なかったという事実を真摯に認めたものだ。
数多くのソフトウェアプロジェクトでも知られており、GNU Cコンパイラ(GCC)
とEmacsの2つがもっとも広く用いられている。
Cygnus Solutionsの設立者。GNU Cコンパイラ(SPARCや他のRISCアーキテクチ
ャにも数多くポーティングした)を始め、GNU C++コンパイラ(彼が作成した)、
GDBデバッガ(C++プログラミング言語をサポートするよう拡張し、SPARCで動作
するようポーティングした)を通して、ソフトウェア開発コミュニティにあまた
の貢献を行なった。
この新しい「オープンソース」ソフトウェアを商業的にサポートするとした既
存の企業をどれも信用できず、1989年にCygnus Solutionsを共同で設立した。オ
ープンソース・ソフトウェアとオープンソース・ビジネスモデルの講演やパネリ
ストとして演壇に上がることも多い。
Linus Torvaldsとは誰か? もちろん、Linuxを生み出した人間だが、これは
「マウスを開発したのがエンゲルバートだ」と言うようなものだ。彼の人となり
は、次の電子メールがよく物語っていると思う。
小さな趣味だった自分のプロジェクトが700万から1000万もの支持者を持ち、
世界で最大のソフトウェア企業の野望に大きく匹敵する主要なOSになろうとは予
見できなかった。
Linuxが広く一般に受け入れられ、インターネットを通してLinuxの燎原の火が
大きくなるにしたがって――インターネット上に設置されたサーバの26%はLinux
が稼動している(一番近い競合相手がMicrosoft社で23%を占める)――Linusの
生活も変わった。生まれ故郷のフィンランドからシリコンバレーに移り住み、現
在、Transmeta Corporationに勤務している。
Vixie Enterprisesの統率者で、bind、inn、DHCPサーバの発祥地であるInternet
Software Consortiumの会長であると同時に設立者でもある。DNSの最も有名な実
装であるbindの主任設計者である。また、Innはインターネット・ネームサーバ
のパッケージで、DHCPはネットワーク情報を動的に設定するためのものだ。
さらに、LinuxのデフォルトのcronデーモンであるVixie cronの作者で、他の
プログラムも数多く作成している。つまり、毎晩、午前1時にコンピュータが不
可思議な音を立てるのは、おそらく彼のせいだという意味だ。
また『Sendmail: Theory and Practice』の筆者であり、商用IXのためのネッ
トワーク管理も行ない、リアルタイムのブラックホール・リスト(スパムメール
を送った人は自分たちの電子メールを全能のごみ箱に投げ捨てる)と主導型送信
セキュリティで構成されたMAPS(Mail Abuse Protection System)を用いて、ス
パムメールとの戦いの指揮を取っている。
ニュースリーダのrnや随所で利用されているpatchプログラム、またPerlプロ
グラミング言語を含め、UNIXで利用可能な最も有名ないくつかのオープンソース
・プログラムの開発者。Configureスクリプトを書き出すmetaconfigプログラム
や、宇宙戦争ゲームのwarpの作者としても知られており、かつてはカリフォルニ
ア大学バークレイ校とUCLAの両方を、実際には言語学の準教員として徘徊してい
た(奇妙な話しだが、バークレイ校に在籍中、そこで行なわれていたUNIXの開発
にはまったく関係していなかった)。
プログラマとしてJPLに勤務していたが、その後、Unisysでも働き、離散事象
シミュレータからソフトウェア開発の方法論に至るまで、あらゆる作業に携わっ
ていた。Netnewsのハッキング・バージョンを使って、1200ボーの暗号化された
回線を介し、大西洋の両岸に設置された管理システム同士を結び付けようとして
いたときに、Perlが生み出されたという逸話がある。
現在はO'Reilly社に所属。Perlに関連した内容のコンサルタントを行なっている。
Red Hat社のCEO。彼はハッカーではなくビジネスマンで、Linuxのサークルで
は、Red Hatのノースカロライナの開発者たちを統制し続けた、神話的な大人と
して語られてきている。一般にGAPやハーレーダビットソンに連想されるような、
ブランド化の法則をフリーソフトウェアの世界に適用した。
元々、Red Hatは商用のOS企業に供給するOEM版Linuxを構築するためのもので、
直接市場に販売したり小売する専用商品ではなかった。そういった商用のパート
ナーたちが、期日に自社の製品を市場に出せなかった場合に限り、Red Hatを独
自ブランドの配布キットで小売したのだ。したがって、Red Hatの社員は(いま
も物語が続いているように)食べて行くだけの給与が保証されていた。
最近、Red HatはベンチャーキャピタリストやNetscape社やIntel社から助成金
を得ている。Red Hatが自社の専用製品を持つとは考えられていなかったため、
このRed Hatの成功を確証するのは嬉しい皮肉だといえる。
最近、「オープンソース」という言葉が新聞や一般の雑誌などで頻出するようになってきた。オープンソースとは、メーカーが独占的に開発する市販のソフトウェア製品とは異なり、インターネットを通じてボランティアベースで開発・改良するという方針を前提に、プログラムコードがインターネット上に公開されているソフトウェアのことである。この方法で開発されたソフトウェアは、インターネットを通じて配布され、急激にユーザー数を獲得していることから、注目を集めるようになった。リナックス(Linux:Microsoft Windowsに対抗するといわれている基本ソフト)、アパッチ(Apache:インターネットのサーバーソフトウェア)、パール(Perl:スクリプト言語)、バインド(Bind: インターネットで通信するために必要なネットワーク管理ソフトウェアの1つ)などが、代表的なオープンソースソフトウェアである。このようなソフトウェアをインターネットで配布、改良することによって、従来とは異なるソフトウェア文化を広めようとする活動を「オープンソース運動」と呼ぶ。